協会情報

電気新聞「時評」 放射線リスクの相場観

平成25年4月17日
原子力安全推進協会代表
松浦 祥次郎


いまさら言うまでもなく、我々はありとあらゆるリスクの中で生きている。身近な道具類をはじめ水や空気或いは太陽光など生きる上で必要なあらゆる事物でさえ、時と場合には身体に障害をもたらすリスクを有している。しかし、これらの事物に伴うリスク感覚は生まれながら五感を通じて自然に心身に刷り込まれ、それぞれ相応の相場観とでも言える評価基準が出来上がり、それらを踏まえながら日常の生活を営んでいる。

ところが、放射線については地球上のどこにでも存在するにも拘わらず、放射線に関する身体感覚は進化の途上で全く獲得されていない。このために五感を通じての放射線障害リスクの相場観というようなものが出来上がる事がなかった。また、放射線障害を受けた人は世間に滅多にいないので、ほとんどの人は放射線障害の実例について直接に話を聞く経験さえない。すなわち、普通では日常生活を通じて、自分自身が納得して放射線影響について、どれくらい低い放射線被ばく量ならまず影響がないという安全感覚、防護感覚を身につけるすべがなかった。

寺田寅彦が言ったとおり、「物事を必要以上に恐れたり、全く恐れを抱いたりしないことはたやすいが、物事を正しく恐れることは難しい。」ものだ。

一方、放射線影響専門家の世界では放射線影響についての膨大な実験的及び疫学的データについての研究結果から「確率的・確定的影響が有意に現れない線量域である100ミリシーベルト/年以下を低線量域とする」ということが共通の認識になっていると聞く。

筆者自身は、先の大戦中の国民学校3年生の時(1943年)の偶然の奇妙な体験を通じて放射線影響を実感させられた。当時、おそらく戦時による物資不足のためか理髪店の衛生環境が悪くなり、白癬菌による頭の皮膚病(しらくも)が流行した。筆者もそれに罹り近くの皮膚科へ通ったが一向にはかばかしくなく、悪化を案じた父が「エックス線でしらくも治療をする専門医院があるようだからそこへ行って治療を受けさせて来い」と母に命じた。母に連れられて行った医院で三度にわたってエックス線照射を受けたところ、医師の施術前予告通り、やがて頭髪は全部抜けたが、しばらくすると産毛が生え、やがて元通りに生え揃った。現在も頭髪はかなり白くこそなったが、余り薄くはなっていない。

原子力を専門とするようになり、あらためてその治療時の被ばく線量を推定してみて、少なくとも頭部に千ミリシーベルト、全身的には少なくとも100ミリシーベルト程度の照射を受けたであろうと考えていた。このような自分の経験を通じて、100ミリシーベルトを低線量とする考え方に納得していた。

以前からご教示にあずかっていた放射線影響の専門家岩崎民子博士から最近いただいた文献で、世界中で20万人もの子供が同様の治療を当時受けていたことを知った。そのうち、ニューヨーク大学で治療を受けた約1万3千人の子供についての被ばくは3千から3800ミリシーベルト、最高は6千ミリシーベルトであったと記録されている。さらに、その子供たちは15年後、25年後に目の検査を受け目に何らの機能障害も認められなかったと結論されている。白血病では少し疑義が指摘されているものの、甲状腺がんの発生については、統計的有意差は認められていない。

岩崎博士の試行的アンケート結果によれば、原子力関連事業従事者でも過半は10ミリシーベルト程度が低線量と認識している。これは専門家の認識と一桁も差がある。ポスト福島の最大の課題の一つは放射線障害のリスクについての「まずまずの相場観」を一般社会に敷衍することではないか。このための科学的知見は揃っている。

以上