協会情報

電気新聞「時評」 原子力を使うには

平成25年1月10日
原子力安全推進協会代表
松浦 祥次郎


2012年は、11年同様、福島原発事故に関連した事項の中で呻吟を続けた一年であった。事故発生以来、被災地の復興や事故炉の処置に直接役立つことをほとんどやっていないにもかかわらず、その周辺事項にばたばたしていたようだ。しかし、心の奥では通奏低音のように「原子力利用に取り組むということはどういうことか」との問いかけが常に響いていた。

3・11以来、多数のメディア報道で見る限り、国内の一般世論は「反原発」「脱原発」「脱原発依存」に集約されているようだった。ところが、先日の衆議院選挙では、「安全確保強化のうえ、当面は原子力利用を継続しながら、あらためて将来の政策を決定する」とのアピールを出していた自民党が圧勝した。

この結果は代議制民主主義国家としての民意が先述のメディア報道による一般世論とかなり異なっていることを示している。民意の表れ方にこのような乖離があるのは、原子力エネルギー利用のような問題の選択、すなわち膨大な社会的利益への期待と裏腹に確率は極めて低くても極端に大きな災厄のリスクへの懸念が共存する問題の選択に対する困惑のためかもしれない。

原子力利用のリスクを社会が直感的に、そしてかなり情緒的に懸念するリスクは急性および晩発性放射線障害のリスクである。しかし、これとは逆に原子力を利用しないリスクも現実的に存在する。我が国のように原子力利用をかなり大規模に導入した社会では、利用を停止することの社会的リスクは膨大なものとなる。過去2年間の我が国の貿易国際収支が大きな赤字を発生している原因の主要な部分が原発の一斉停止によるものであることはそのリスクの端的な証左と言えよう。我が国や韓国のように、天然の良いエネルギー資源に恵まれない国では、この種のリスクの差が顕著になるのは予想に難くない。このような事情も我が国社会の原子力選択に困惑をもたらす要因であろう。

福島事故後の社会的混乱、困惑を見ると、事故の教訓として、我が国が原子力エネルギーの大規模導入を決定するに当たって、そのリスクを多面的に社会に十分に説明できていなかったことを痛感せざるを得ない。これは我が国に限ったことではないが、原子力について原爆という極端な人災と、巨大津波という天災がきっかけとなった大災害の二つを被った世界唯一の国として、原子力を使うことの意昧をあらためて徹底的に考えなければならない。

工学的な側面からのリスク評価については国内外のいくつかの学協会の専門家グループで実施されている。その最も典型的な成果と評価される報告書が米国機械学会から2012年6月に出版され、それについてのワークショップ「新たな原子力安全概念の構築を目指して」が同年12月に開催された。そこでは、「現在の原子力科学技術は福島事故のきっかけとなったような巨大な自然現象に対しても、十分な設備整備と人的・組織的訓練によってリスクを社会の受容可能なレベルまで抑制することが可能である。しかし、極端に発生確率の小さい巨大な天然現象についてのリスク評価はさらに重要な今後の課題である」との考え方が主調であった。

しょせん我々はリスクゼロの世界には生きていない。これまでもそうであったし、これからも永くそうであろう。人類は無意識的にしろ、農耕・牧畜のリスクを取ることによって狩猟・採取の生活に決別し、現代文明への道を辿った。我が国社会はどう見ても、世界の最先端文明社会の一部を成している。原子力の選択には知識と知恵と覚悟が不可欠である。福島事故の悲惨を踏まえて、徹底的にリスクレベルの低い原子力利用システム構築を決断し、その一歩を踏み出すときであると信じる。

以上