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電気新聞「時評」福島事故、緊急時対応の問題点(2)

平成25年1月21日
元日本原子力技術協会最高顧問
石川 迪夫


前回(2012年11月19日)に続く緊急時対応の問題点は、2号炉での格納容器ベントの失敗である。この失敗がなければ、周辺の放射線量は小さく、政府の決断次第だが、大規模な住民避難にはならかった、と思われる故だ。

事故時の放射線量の変化を、発電所正門付近の測定結果で見ると、基準となる背景線量が2度に渡って増えたのが分かる。最初は12日で、通常値の約0.1μSv/時から約3μSv/時へと上昇し、次が15日で、約300μSv/時へと100倍近くも上っている。

この理由は、放射能がベントから出たか、格納容器の破損部分から出たか、の違いにある。

ベントとは、格納容器のガス抜き設備であることは、既に本欄(12年10月2日)で述べた。炉心冷却に失敗すると、原子炉から吹き出る高圧蒸気や放射性ガスで、格納容器の圧力が上がり、遂には破損に至る。そうなる前に、ガスを抜く装置がベントであった。

1号炉は、爆発前にベントが開いた。3号炉も同じで、ガス抜きに成功したので、格納容器は壊れなかった。2号炉はベントがうまく開かず、格納容器は過圧状態となって、一部が壊れた。ベント管を仕切る破裂板が破れなかったとも、隔離弁の開状態が維持出来なかったから、とも言われている。

背景線量の最初の増加は、1号炉の溶融が疑われる12日の朝5時頃であった。この線量は3号炉の溶融爆発を経ても変わらず、14日夜遅くまで3μSv付近にあり、ほぼ一定であった。

事故時の線量は、爆発やベントの影響を受けて、一時的に数万μSv/時にも上昇しているが、これは短時間の現象で、直ぐに元の背景線量に戻っている。

この均衡が破れたのが、2号炉が溶融し格納容器が破損した14日夜から15日朝にかけての時間帯だ。曲折はあるが、15日の夕刻に落ち着き、300μSv/時ほどの背景線量となっている。

3μSv/時から300μSv/時への線量急上昇が、放出経路の差にあることは明らかだ。

余談だが、300μSv/時になった背景線量が、3μSv/時付近にまで低下したのは昨年の春、まる1年を要している。

ベント管から放出される放射能は、格納容器下部にある水溜まりを潜りぬけて、スタック(煙突)から出る。従って放射能は、うがいをしたように洗われたのち放出されるから、薄い。

3号炉の溶融爆発で上昇した背景線量が、約3μSv/時と低いのは、このうがい効果だ。

これに対して2号炉の放射能は、格納容器の破れ目から直接出るので、濃い。この差が正門付近で、100倍の差となって現れた。

3μSv/時を年間線量に直すと、26mSv/年となる。これは、国際放射線防護委員会が日本政府に勧告してきた避難線量、20~100mSv/年の下限値に近い。

もし2号炉のベントが成功していれば、うがい効果によって背景線量に変化は起きず、3μSv/時程度に留まっていたろう。 

発電所からの距離が正門より遠い住宅地の多くは、正門の線量より当然低いから、避難勧告値の20mSv/年を超えなかったに違いない。だとすれば、避難は必要ないことになる。これは、飯館村についても同じだ。

何故ベントに失敗したのか。破裂板も隔離弁も、誤ってベントが開いて格納容器の密閉を損なう恐れへの、設計配慮にあった。だがベントの役目は逆に、その密閉を破るための安全装置だ。万一を考えて、容易に開く工夫を講じておくべきであった。些事にこだわり大本を忘れた設計で、設計者、発注者、双方共に大ポカだ。

非常用復水器の作動失敗も、些細な放射能漏れを恐れての配慮にあり、根は同じだ。放射能意識の改革が、原子力界にも必要だ。

以上