協会情報

電気新聞「時評」 相互の虜

平成25年6月6日
原子力安全推進協会代表
松浦 祥次郎


昨年夏に公表された福島第一原子力発電所事故に関する国会事故調査委員会報告書において、事故防止が十全にできなかった重要な原因のひとつは、安全規制が事業者の虜になっていたことにあるとの指摘がなされている。記載の内容から、そうした事実があったのかとも思ったが、筆者自身の被規制者側としての、また逆に規制者側としての執務経験にはそのような事実の記憶がないため、何とも腑に落ちない感じが残っていた。

昨秋以来、規制を受ける立場の経験を有した人達と意見交換をする機会が多くなった。それらの中から生じてきたのは、「規制が事業者の虜になっていたとの見解は否定できないことかも知れないが、逆に事業者も規制の虜になっていたのではないか。相互に虜に成り合っていたのではないか」との疑問である。

よくある話は、規制の指摘が技術的に相当不合理と分かっていても、それに拘ると時間ばかりかかって仕事が進まない。「ハイハイ」と指摘どおりにするのが得策との対応である。もっと重要なのは、建設時に許認可を受けた施設や機器が安全性向上の視点から改良したほうが望ましいと判明しても、施設・機器の改良理由を「安全性向上のため」とすると手続き、検査等がやたらに難しくなる。従って、理由を「作業上の便宜のため」としてさっと済ませると言うようなケースである。これでは事業の現場は厳格な規制の虜になっているとしか思えない。

我が国に限ったことではないが、権威主義的歴史の長い社会では、法規を制定するのは専ら権力者・規制者(お上)であり、被規制者にはひたすらそれを遵守する事が求められる。このような環境下では被規制者に遵法精神を期待するのはかなり難しい。ちなみに、筆者が我が国の諺辞典を調べても「法を守らなくては」との趣旨のものは見いだせなかった。「泣く子と地頭には勝てない」など、逆のものは幾つかあったが。

一方、法規の制定者の権威主義的傾向が強くなると、規制の権威を守るため無謬性への固執が強くなったり、規制の実際的目的を超える 過剰規制への傾向が目立つようになったりする。さらには、パターナリズムによる「念のため」の重なりが、しばしば全く不合理な規制の過剰を生む。

このような事情は社会に不要な不幸をもたらす。不当に過剰な規制の下では、被規制者は規制を遵守さえすれば規制目的を十分に達したとの自己満足に陥り、より高度の水準への向上意欲を持たなくなる。また、権威主義に裏付けられた過剰規制は規制目的の本質から乖離し、形式的遵守を規制にも被規制にも重視する傾向を生じる。挙句は、規制も被規制も、より実効的で資源有効的規制、即ち規制の進歩への意欲を喪失する。相互の虜の不幸である。

適正かつ実効的な規制は規制と被規制が相互に規制目的の価値と必要十分な情報を共有し、双方が納得の上で設定された基準に則って実施される環境下でこそ実現するものであろう。これは幻想に過ぎない期待であろうか。

社会的進歩の歴史を眺めて見れば、それは「幻想の実現過程」とも言えるものである。「奴隷制廃止」や「平等な基本的人権の実現」などまさに幻想の実現ではなかったか。

原子力安全規制についてみれば、身近な米国の安全規制体制の進歩の軌跡はこの実現過程を着実にたどりつつあるように見える。勿論、彼我の種々の差異を無視することはできないが、我々も意識的かつ計画的にその軌跡を真面目にたどっても良いのではないか。そのために必要な努力と時間は決して少なくはなく、何より社会の納得が不可欠であるが。とにかく、「相互の虜」のままでは一歩も前進できない。このしがらみは自分で壊す以外にない。

以上